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『ロスト近代 資本主義の新たな駆動因』

 

橋本努著・弘文堂・20125月刊行

 

はじめに

 


 

 宴は終わり、下り坂を迎えた日本社会。私たちはこれから、どこへ向かうのだろう。

 二〇〇六年にピークを迎えた日本の人口は、五〇年後にはその三分の二まで減るのではないかと言われている。平均的な可処分所得はすでに、一九九七年を境にして下落傾向に転じている。一人当たりの実質GDPもまた、二〇〇七年から下落傾向にある。大学生(下宿生)が一か月に使える平均的な生活費(住居費を除く)は、二〇一〇年には、最大時の一九九二年に比べて、四分の三の六万三、〇〇〇円にまで下がっているという。

 「ポストモダン消費社会」を謳歌した日本の栄華は、もはや過去の話となってしまったのであろうかかもしれない1ークを迎えた日本の人口は、あと。代わって「失われた一〇年」とか「二〇年」といわれる低成長の時代が、すっかり定着してきた。ひょっとするとあと数年もすれば、日本はギリシアのような財政破綻国家になるかもしれない。あるいは日本の経済レベルは、新興諸国に追いつかれるかもしれない。そんな不安が、私たちの脳裏をよぎっている。

 先々のことを考えると気が滅入ってくる。そんな時代の在り様を、本書はひとまず「ロスト近代」と呼んでみた。「ロスト近代」とは、「ポストモダン」=「ポスト近代」の後に訪れた社会である。贅沢な記号消費に彩られた「ポスト近代」社会が終焉し、斜陽に包まれた社会が到来した結果、私たちの思考習慣はいま、根底から揺らいでいる。かかる現代の歴史的位相を、大局的に掴んでみようというのが本書の狙いであるっ境市民派きた「第二の自然」(例えばインターネット)が、それ自体

 日本社会はむろん、決して脆いわけではないだろう。私たちは新興諸国の勢いを目の当たりにして、相対的な「剥奪感」を感じているだけなのかもしれない。だがそんな最中に生じた出来事が、二〇一一年三月一一日の東日本大震災と原発事故であった。とりわけ原発事故は、戦後最大の危機であり、この時代の困難をさらに深刻なものにしている。日本社会を一つの身体にたとえるならば、私たちはあたかも、自らの身体から血を流すかのように、福島の原子力発電所から放射性物質を撒き散らしているのではないだろうか。このおぞましさに、私たちはどこまで耐えられるのだろう。

 大震災とその後の原発事故によって、多くの人命と生活が奪われてきた。ある人は故郷を追われ、ある人は最愛の人を失った。私たちはまた依然として、放射性物質による生命の緩やかな致死におびえている。原発行政を主導した官僚制マシーンとしての近代国家の威信も揺らいでいる。こうした諸々の喪失は、「ロスト近代」の本質を抉り出しているのではないだろうか。この時代に失われたものとは、端的に言えば「未来」である。未来を根拠として現在の否定性を受け入れるという、精神のメカニズムである。そのような喪失の感覚が広がる現代において、私たちはどんな社会構想を企てることができるのだろうか。本書ではとりわけ、ゼロ年代の社会を診断しながら、時代を導くための規範理念について考えてみたい。

 以下、本書の内容を要約しよう。

 第一章「近代・ポスト近代・ロスト近代」は本書の「理論編」であり、導入であると同時に中核をなしている。新たに「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」という時代認識の枠組みが提示され、「ロスト近代」社会の駆動因が探究される。ごく簡単にいえば、「近代」とは人々の勤勉な労働によって駆動される社会であった。これに対して「ポスト近代」とは、人々の欲望消費の増大によって駆動される社会であった。では「ロスト近代」は、どんな駆動因をもっているのだろう。ネグリ=ハートのマルチチュード論、センのケイパビリティ論、あるいは「第五の競争軸」論などを手がかりに、「潜在的可能性」をめぐる新たな理論を示したい。

 つづく第二章から第八章までは、主としてゼロ年代の社会を対象とした「分析編」である。第二章「ロスト近代 表層から深層へ」は、「められているのではないだろうかる過程で、さまざまに語られてきたリベラリズム」と「自己愛消費」が構造的なカップリングをなしていた九〇年代から、グローバル化とともに「サヴァイヴ感」を増していったゼロ年代への転換を描きだし、「記号消費」から「価値消費」への変化、「貧困」問題のシンボリックな意義上昇、あるいは「寄与経済」の発達といった特徴から、「ロスト近代」の新しい駆動因に迫っていくる面時代の駆動因を検討し

 これを受けて第三章「格差社会論 ゼロ年代の中心」では、ゼロ年代の論壇の中心にあった「格差社会」論を正面から検討している。格差意識の増大をもたらした要因は、およそ三つあるだろう。(1)高齢化、(2)「ポスト近代」社会の成功、および、(3)経済の鈍化である。これらの原因を究明することによって、それぞれに相応しい対応策を立てることができるが、加えて本章では「可能性剥奪テーゼ」と「物質的阻害テーゼ」という論理を立て、「ロスト近代」においてはとりわけ「子どもへの支援策」が必要であることを明らかにする。

 第四章「北欧型新自由主義の到来」は、「格差社会」を克服するためのビジョンとして語られることの多い「北欧型」の社会モデルについて検討している。実はすでに、北欧諸国は新自由主義化している。するとその理想は「北欧型の新自由主義」ということになるだろうか。有名なエスピン=アンデルセンの類型論を超えて、比較制度分析の新たな地平を示しつつ、北欧型新自由主義のモデル(潜在能力促進型の福祉国家)が「ロスト近代」に対応した普遍性をもつことを示したい。加えて、イギリスで導入された「チャイルド・トラスト・ファンド(児童信託基金)」が、このモデルに接合されることも示したい。

 「北欧型新自由主義」のモデルは、福祉国家と市場経済の新たな地平融合であり、ギデンズの「第三の道」とは異なる「第四の道」であると言うこともできる。それは「ロスト近代」の駆動因を提供する点でも魅力的である。ただこのように述べると、新自由主義が宿すさまざまな問題を過小評価することになりかねない。新自由主義は、リーマン・ショックのような世界金融危機をもたらしたのではないか。

 かかる問題に応じるべく、第五章「ローマ・クラブ型恐慌への不安と希望」は、新自由主義をめぐる金融政策と財政政策、および、政府主導の資源政策と技術開発について検討している。まず、リーマン・ショック後の経済危機は、政府主導の重商主義政策に起因したものであり、必ずしも市場に内在的な危機ではないことを明らかにする。しかし資源問題に対する私たちの不安は、新たな重商主義を呼び寄せている。現代の市場経済は、内在的な不安定性を抱えないとしても、ルーマン的な意味でのく経済も市場に内在的な危機ではない。る。ただ、このように述べる「残余リスク」を構造化するために、実効的な政策は重商主義にならざるを得ない。だがいったい、重商主義は、私たちをどこへ導くのだろうか。本章では、「ロスト近代」の位相を見定めつつ、ローマ・クラブ型恐慌に対する私たちの「不安」が、祝福された精神(エートス)になりうることを示したい。

 ローマ・クラブ型恐慌とは、世界的な資源問題に起因する社会変動である。実際問題として、「ロスト近代」社会は、グローバル化とともに到来している。グローバリゼーションは、私たちの生活に「遠心力」をもたらし、さまざまな潜在的可能性をもたらしてきた。ところがグローバリゼーションは、実際には私たちの可能性を奪っている。この逆説に抗して、人々の「潜在的可能性」の全面開花という理想を掲げたのが、反グローバリズム運動であった。グローバル化と反グローバリズムの弁証法は、いかなる止揚を遂げるのか。第六章「グローバル化の逆説」では、ロスト近代の駆動因という観点から過去約二〇年間の世界史を振り返り、反グローバリズム運動が果たした意義を評価したい。

 つづく第七章と第八章は、三・一一大震災と原発事故の問題を検討している。第七章「311大震災と原発事故を考える」は、311大震災と原発事故が「明治維新」(一八六八年)や「敗戦」(一九四五年)と並ぶ時代の転換点になるとの認識から、その歴史的な位相を分析する。「明治維新」との比較で言えば、私たちに求められているのは「第二の文明開化」である。また「敗戦」との比較で言えば、求められているのは「無責任体制の克服」である。しかし原子力発電の体制は、「サブ政治」がはらむ問題ゆえに、責任倫理の問題を制度的に解決することができない。その理由を本章では、とりわけ原子力安全委員会委員長の斑目春樹の言動を分析しつつ、明らかにしたい。「無責任の体制」を克服するためには、私たちが「安楽の全体主義」を超える精神をもたなければならないと主張する。

 だがしかし、精神論を超えて、私たちは電力供給をめぐるどんな制度構想を掲げることができるのだろうか。この問いは「ロスト近代」の根幹に関わってくる。思想的には「リベラリズム」も「国家型コミュニタリアニズム」も明快な答えをもたない。「社会的費用論」や「競争入札理論」のような経済学説も答えにならない。第八章「グリーン・イノベーション論」は、自生化主義(ないし成長論的自由主義)の理念に基づいて、電力の中央計画経済体制を超えるための、自律分散型の人工市場システムをデザインしたい。環境税、市場プル戦略、優先接続などの政策理念を体系的に検討し、地方自治体に期待される役割についても示唆を与えたい。

 最終章となる第九章「ロスト近代の原理」では、ふたたび理論的な問題に立ち返って、この時代の駆動因を思索する。環境問題への対応、あるいはエコロジカルな生活様式の企ては、いかにして資本主義の新たな駆動因となりうるのか。「自然の本来的価値」論から出発して、自然の模倣(バイオミミクリー)論に進み、環境市民の実践思想を展開することでもって、「環境駆動型資本主義の思想的根拠」を明らかにする。環境市民は、すでに確立された第一級の文化を取り巻くよりも、もっと高貴な生き方があると考える。ポスト近代文化の煮詰まった停滞を打破するための「高貴な野生人」の理想があると考える。その理想について、最後に検討したい。